またたびCINEMA〜みたび〜

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「あこがれ」が琳派をつなぐ―大琳派展

琳派」という日本画の系譜がある。そもそも「琳」は尾形光琳からきているらしい。
上の看板「風神 雷神」はどこかで見たことある絵だし(風邪薬?)、金ぴかで派手だし、どこかユーモラスでもある。ここ何年か日本画好きになった私も、芸術の秋を感じに行って来た。

今年2008年は尾形光琳の生誕350年目にあたり、それを記念して、東京国立博物館で「琳派 継承と変奏」という展覧会を大々的に催している。
目玉は4つの「風神雷神図」が一堂に会する。すなわち、俵屋宗達尾形光琳、酒井泡一、鈴木基一の手になる絵が並んで見られるということだ。(上の看板は尾形光琳
ところが、私は俵屋宗達の「風神雷神」を見ることが出来なかった。なんてこったい!28日からの展示なのだ。この4つの「風神 雷神」が描かれる基となった、肝心要の国宝、宗達のものが見られないなんて。それに追い打ちを掛けたのが、これまた国宝、光琳の「燕子花花図屏風」も19日で公開を終わっていた。間の悪いことこの上ない。

それでも、光琳、泡一、基一の3人の「風神雷神図」を並べて見ることが出来た。みんな同じ構図で、そっくりだ。当たり前田のクラッカー、真似っこしているのだから。
光琳に至っては、宗達の絵の上に薄紙を置いて模写している。泡一は宗達の絵は知らず、光琳のものを真似ている。さらに基一は泡一のを写していると思われる。
その辺の解説は、雑誌BRUTUSの「琳派って誰?」に詳しい。とても勉強になったし、面白い。

BRUTUSは、何故琳派は金銀ひかりものが多いのか?という疑問のにも応えてくれる。みんな家がお金持ちだったからだそうだ。納得。それでなんか洗練を感じるんだ。


今回の展覧会は、琳派の作家として6人に焦点をあてている。

本阿弥光悦(1558〜1615)と俵屋宗達(記録なし)のユニット

狩野派のような幕府お抱えではなく、在野の天才絵師だった俵屋宗達の絵は自由闊達だ。金色の屏風の左右上方に雷神と風神を配し、中央を大きく空けた構図は、宙に浮かぶ二神に躍動感を与えている。一方、本阿弥光悦は、刀剣を家業とした由緒ある家柄の出身で、寛永の三筆といわれた書の腕前で、茶碗、蒔絵まで作る多才な人だった。宗達が絵を描き、光悦が字を載せるといったコラボ作品を数多く残している。注目すべき作品は、宗達の「白象図杉戸」や光悦の茶碗。

尾形光琳(1658〜1716)と乾山(1663〜1743)兄弟

二人から百年後、京の高級呉服商のボンボンだった光琳は、放蕩の限りを尽くして40才で破産。兄は絵画、弟は陶芸などで喰いつないだ。遠縁に本阿弥光悦がいたため、光悦、宗達の作品に幼い頃から接していた。宗達を絵の師匠とした光琳は、「風神雷神図」をそのまま写した。宗達への憧れは模倣という形を取ったが、しょせんオリジナルは超えられない。しかし、晩年光琳は傑作「紅白梅図屏風」を描き上げた。対比という構図を使い、心の師匠に挑んで達成した境地だ。

酒井泡一(1761〜1829)と鈴木基一(1796〜1858)師弟

光琳に遅れること、更に100年。京ではなく、酒井泡一は姫路藩酒井家の次男として江戸で生まれた。泡一は、相当光琳が好きだったらしい。光琳の絵の模写「光琳百図」を著わし、光琳百回忌の法要まで営んだ。
泡一が模写した「風神雷神図」は光琳そっくりだが、躍動感に欠け、こじんまりした印象だ。宗達のオリジナルは知らなかったようだ。しかし、この絵の裏側に描かれた「夏秋草図屏風」は、下方に夏草と秋草を対比した構図で描かれている。これも「風神雷神図」の変容と見ることも出来る。風にしなる草の繊細な描写が見事だ。(朝日新聞29日夕刊アート欄にこの絵の記事掲載)
泡一の高弟の基一も、「風神雷神図」を屏風ではなく、襖に描いている。金ではなく銀色をベースに横長のためか、スケール感は出ていたと思う。


この様にそれぞれ100年のインターバルを経て、6名の才人が同じ様な作品を作っている。4つの「風神雷神図」に象徴される琳派継承と変奏を、実際に会場に足を運んで観て来て欲しい。その根底に流れるのは、先人への「あこがれ」である。「あこがれ」は最初は模倣でしかないが、やがて消化、吸収され、オリジナリティある作品へと変容、実を結ぶことになる。