またたびCINEMA〜みたび〜

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男と女の間には?―『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』

ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜/根岸吉太郎/2009/日本


映画館の暗闇でこの『ヴィヨンの妻』を観ながら、ふと、ある映画が思い浮かんだ。
成瀬巳喜男の『浮雲』である。
戦後日本の復興期を舞台に、腐れ縁で結ばれた男と女の話を描いた傑作である。小津安二郎が「俺には撮れない」とまで言ったと聞いている。
浮雲』は林芙美子の原作で、高峰秀子森雅之が主演している。『ヴィヨンの妻』の方は、太宰治原作で、松たか子浅野忠信の主演だ。
浮雲』の高みまで達しているとまで言うつもりはないが、思い出されるというのはいい傾向だ。


小説家のなかで太宰治ほど好き嫌いのはっきりしている人はいないだろう。
亡くなって60年も経っているのに、毎年命日の桜桃忌にはたくさんの人が墓参りすると聞く。
私もどちらかといえば好きではない。「生まれてスイマセン」という名文句が象徴するように女々しい(差別用語?)、愛人を道連れにしないと自殺もできない人、という感じだ。
本当に心が弱かったのだろうが、その「弱さ」を売物にして小説に仕立てていた。
そういえば、私は荻窪に住んでいるのだが、ある日家を出て間もなく、ある中年の男性に声をかけられた。太宰治がこの辺に住んでいたはずなのだと。たいして興味もなかったので、その後調べてみることもしなかった。


そんな私でも、この映画は面白かった。太宰自身を投影していると思われる大谷は、情けないくらい酷い男だ。これほどではなくても、こういう男はいる。そんな男に惚れてしまう女もいる。私にも思い当たるふしがある。
主演のふたりが素晴らしい。松たか子が実に美しく、浅野忠信がダメ男をなぜか嫌みなく演じている。


文芸作品の映画化は珍しくはないが、昨今はあまりない。久しぶりに文芸映画の佳作を堪能した気がした。秋の夜長に心に沁み入るようなしっとりとした作品だ。
モントリオール映画祭で、最優秀監督賞を受賞した根岸吉太郎監督。私にとっては『遠雷』以来のなつかしい出会いだった。
日本映画の黄金期に数多く作られた名作に匹敵する出来かどうか、多くの映画ファンに観て欲しい。
私が『浮雲』を思い出したのは無理もない。美術監督種田陽平さんがインタヴューで、『浮雲』の美術助手だった竹中和雄さんに協力していただいたと述べている。終戦直後のあの舞台セットは、『浮雲』の資料を参考にしたそうだ。種田氏は「成瀬映画へのオマージュ」とさえ言っている。
中野の闇市のセットは素晴らしい。呑み屋で夫婦を演じている伊武雅刀室井滋がさすがの風格だ。セットの一部のように溶け込んでいる。

そういえば、つい先日黒澤映画の美術監督を長年つとめた村木与四郎さんが亡くなった。『乱』は本当に美しかった。昔の日本映画が素晴らしかったのは、制作スタッフの技術が確立されていたせいである。

黒澤監督といえば、娘の和子さんがこの作品で衣装を担当している。
妻の佐知の着物をはじめ、それぞれの俳優の衣装がいい。特に呑み屋で働き始めた佐知が着る赤い着物が印象的だ。この着物をめぐって夫婦間でひと悶着が起きる。
対して愛人の秋子の着物は粋な青の縦縞だ。広末涼子が演じているが、ウェーヴのかかったモダンな髪型が浮いていて、いただけない。温泉の座敷のシーンは、『浮雲』にも似た場面があって、つい比べてしまう。広末に愛人の役はまだ無理のようだ。

ヴィヨンの妻』には、印象的なシーンや台詞がいくつかある。
大谷と佐知が家に歩いて帰る場面で、妻がこうしてふたりで帰れることが幸せだと言うと、夫が「男には、不幸だけある」と言う。女は何故か迷わず生きていく強さがあるのに対して、男はなんて不安定な生き物なんだろう。妙に納得した場面だ。


この作品での松たか子の美しさは普通ではない。なにかが降りてきたような奇麗さだ。
夫を留置場から救うお金が工面できずに、街角の娼婦から買った口紅を塗って、妻は覚悟して昔の恋人である弁護士に合いに行く。肝心の場面は見せずに、佐知が弁護士事務所の建物から出てくる。その姿を見てハッとした。一線を超えてしまったことを、一瞬で悟らせてしまう。松たか子は成長した。
中野に帰ると解放された夫がいる。何かを悟った夫は妻に何をしてきたか?と聞く。「人に言えないこと」と応える妻。


最後、さくらんぼを食べながら妻がいう。「人非人でもいいじゃないですか」「私たちは生きてさえいればいいのよ」