またたびCINEMA〜みたび〜

大好きな猫や映画の小ネタなんぞをとりとめもなくつづってゆきます

左目で綴った映像詩―『潜水服は蝶の夢を見る』


Le Scaphandre et le Papillon/2007/フランス=アメリカ
パテ社のモビールがゆらゆらした後、画面はレントゲン写真を次々と写し出す。そのバックに流れるのは、なつかしいシャルル・トレネの『ラ・メール』だ。その暖かい歌声を聴くだけで、私の胸はいっぱいになった。大好きなのだ。滑り出しは上々だ。
この映画の原作者ジャン=ドミニク・ボビーは、ELLE誌の編集長だった。3人の子供にも恵まれ、恋愛も楽しむ、公私ともに充実した日々を送っていた。ある日新車のスポーツカーに息子を乗せて行く途中、脳卒中に襲われた。
目が覚めたジャン・ドーは、まぶた以外の全身が麻痺したことを知る。たいへん稀な症例で、医師から「ロックト・インシンドローム」という名を告げられる。

タイトル

タイトルの「潜水服」というのは、まったく自由の利かなくなった身体を、まるで重くて固い潜水服に拘束されたかのようだという喩えだ。映画では、昔ながらの丸いヘルメットの潜水服の男が、糸の切れた凧のように青い海を浮遊している映像が流れる。
もうひとつの「蝶」というのは、身体は動かなくても、心は蝶になって何処へでも飛んで行ける。過去にも未来にも。愛しいあの人とも愛し合える。蝶が花から花へと飛び回る映像で私達も解き放たれる。
映画と原作のフランス語のタイトルは、『潜水服と蝶』だが、本を訳した河野万里子さんは『潜水服は蝶の夢を見る』とした。配給のアスミック・エースもこちらを採用した。(字幕は松浦美奈さん)映画を見る前は、単に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のもじりだと思っていた。でも見終わってからは、映画のテーマにぴったりのタイトルだと納得した。

斬新な撮り方

観客は、まず斬新なカメラ・ワークに感心させられる。映画の前半は、病室のジャンの視点のみから描かれる。カメラが彼の左目になって、昏睡から目覚めると焦点の定まらないぼやけた病室と看護士の姿が写される。部屋にやってくる看護士や医師、見舞客は、彼の左目、すなわちカメラを覗き込む。
カメラの視点は観客の視点だから、観客はジャンの身体に入り込んだかの錯覚に陥る。うまいやり方だ。
後半、カメラはジャンの身体を離れ、普通の客観的映像に移って行く。ジャンの心を写しだした映像は、時も空間も自由に蝶のように飛び越えてゆく。

本を書く

言語療法士のアンリエット(なぜか彼を支える女性達はみんな美人だ)は、意志の伝達方法を教える。”ウィ”は瞬き一回、”ノン”は瞬き二回。使用頻度別に並んだアルファベッドを読み上げ、瞬きによって文を紡いで行く。ジャンと仲間たちの唯一の会話手段だ。
出版社から派遣されたクロードは、実に20万回もの瞬きを書き取って、1冊の本に仕立てた。映画の原作である。気が遠くなるような作業だ。ジャンはクロードに感謝の献辞を贈っている。ジャンは以前、『モンテクリフト伯』の現代版を書きたいと思っていた。ボートの上でクロードが『モンテクリフト伯』をプレゼントする場面がいい。

ルッサンそして父

病院に面会に来たルッサンという白髪の男の話が印象深い。飛行機の席を譲ってもらったおかげで、ジャンの代わりにルッサンはベイルートで何年も監禁される羽目になった。
ワインの銘柄を頭に浮かべることでかろうじて正気を保った彼は、ジャンに助言する。「自分の中の人間性にしがみつくことで生き抜ける。」その時は半信半擬だったジャンも、その後その通りの精神力で生き抜くことになる。
マックス・フォン・シドー演じる父には泣かされた。最後に会った時、息子は父の髭を剃ってやる。父は亡くなった妻が今も恋しいと語る。ふたりの何気ない会話に強い絆を感じる。息子が倒れた後の父の電話に胸がつまる。自分は年を取ってアパートから出られない。親子してロックト・インシンドロームだと。

映像と音楽

全編を通して、詩情豊かな映像とバラエティに富んだ音楽に心和む。
バッハのピアノ曲をバックに、氷河が崩れ落ちる映像が流される。これは主人公の身体と心を象徴的に表したのだろう。ところが、エンドロールはこの溶けて行く氷河が逆回転で元に戻って行く映像になっている。流れている曲は、トム・ウェイツジョー・ストラマーに変わっている。ここは未来への希望を提示しているとみたい。
トム・ウェイツは、浜辺で子供たちや母親と遊ぶ場面で流れる。砂浜と車椅子が印象的なシーンになっている。
恋人と戯れる場面では、ニーノ・ロータの曲がメランコリックに流れ、編集長時代のバリバリの仕事のシーンには、ガレージ・バンドのロックという具合。
一番心浮き立ったのは、BMWで息子を迎えにいくシークエンスで流れるメロディ。大好きな映画の音楽だと思いながら、後で碓認すると『大人はわかってくれない』だった。
全体のテーマを作曲したポール・カンテロンも味わい深い。