またたびCINEMA〜みたび〜

大好きな猫や映画の小ネタなんぞをとりとめもなくつづってゆきます

猫とおじいさん;生まれながらの自由人―『ミリキタニの猫』

The CATS of MIRIKITANI/2006/アメリカ
MAKE ART,NOT WAR!
ミリキタニの猫 公式サイト←クリック

ニューヨークのど真ん中ソーホーで、猫の絵を描く風変わりなホームレスの老人がいた。絵は売るが、恵んだお金は受け取らない。自分を「生まれながらの絵描き」「グランド・マスター・アーティスト(巨匠?)」と称し、プライドは高い。「三力谷(ミリキタニ)」という珍しい名前の日系人である。
映画作家のリンダ・ハッテンドーフは、このじいさんに興味を持ち、絵と交換に彼を撮影し始める。ニューヨークの冬は寒い。韓国人店主の好意で軒先にビニールのカーテンを吊って風を避け、何枚も重ね着しても寒さは身にしみる。こんな日々が10年以上も続いた。晴れの日も、雨の日も、彼は黙々と絵を描きつづけ、ある日リンダがやって来た。リンダがカメラ片手に会いにきてくれるのを、心待ちにするようになった。
絵を描きながら、ぽつぽつと身の上話をする。1920年サクラメントで生まれ、広島で育った。兵学校へ入れようとする父に反発し、18才でアメリカへ舞い戻り、シアトルで姉一家と共に住む。
しかし、真珠湾攻撃に過剰反応したアメリカ政府は、日系人と日本人移民を強制収容所に送り込んだ。ドイツ人とイタリア人は収監されなかったことから、後に人種差別と批判され、政府は1988年に正式に謝罪した。
ジミー・ツトム・ミリキタニもツールレイク収容所へ送られた。(彼はこの収容所の絵もよく描く)砂漠の真ん中の過酷な環境の中、多くの収容者が犠牲になった。ジミーを慕い、「日本の猫の絵を描いて」とせがんだ少年も亡くなった。猫の絵を描き続ける裏には、こんな悲しい思い出があった。収容所ではアメリカ政府への忠誠心がテストされ、ジミーはこれに抵抗し、市民権を剥奪される。戦後も農場で過酷な労働に従事させられる。
その後市民権が回復されたのも知らず、ジミーはアメリカ政府に背を向けて生きて来た。市民権はいらない、社会保障番号なんてクズだと言い捨て、筋金入りの反骨精神を身につける。故郷広島に原爆を落とされたことで、ますます戦争嫌いになる。
農場から解放され、料理人として働いていた時には、画家のジャクソン・ポラックと会い、日本食好きの彼のために鮨や天ぷらをご馳走したそうだ。
世界が震撼した2001年9月11日、燃え上がるビルを背に黙々と絵筆を走らせるジミーの姿があった。崩れる貿易センタービルと、広島の原爆ドームが重なって見えた。有毒ガスが流れてくる路上で、咳き込むジミーを見兼ねて、リンダは自分の狭いアパートに招き入れる決心をする。この時を境に、リンダもカメラの前に出てドキュメンタリーの登場人物となった。
リンダのかわいい三毛猫とともに、アパートでもやはり絵を描き続ける。ある日夜遅く帰宅したリンダを怒る様子は、まるで本当の孫娘を心配するおじいちゃん。それに猫まで加勢して文句をいっているのがおかしかった。
居間のTVでは、オサマ・ビン・ラディンがアメリカを非難する映像が流れ、原爆投下に言及している。今、アメリカで迫害されているのは、日本人ではなく、アラブ系市民だ。
リンダの奔走のおかげで、社会保障番号を獲得し、年金も出て、新しいケア付きのアパートに住むことが出来た。収容所への鎮魂の旅もし、長年会えなかった姉とも再会する。
ジミーは新しい自分のアパートに、たくさんの絵を飾り、捨て猫を引き取って暮している。リンダによると、自宅で開く誕生日パーティは年々盛大になっているそうだ。

余談だが、日本のホームレスの自立の方法として、雑誌「ビッグ・イシュー」の販売がある。実際、自立に成功した例を数カ月前TV番組で見た憶えがある。彼の場合もアパートの敷金を雑誌の顧客だった女性に借りて、路上から脱出できたそうだ。
十数年イギリスに旅行した時に、ホームレスが町で「THE BIG ISSUE」を売っていたのを見た時には感心したものだ。当時のイギリスでは若者のホームレスが目に付いた。
その雑誌の創設者が来日したという記事を朝日新聞で読んだ。ジョン・バードさんといい、自らもホームレス出身だそうだ。
ジミー・ミリキタニは、リンダの尽力によってケア付き老人ホームに入居できた。日本で無職の老人が生活保護を受けることが出来たとしても、恐らく最低限の生活を送らざるを得ないであろう。ムーア監督の『シッコ』では、アメリカの医療制度の悲惨さが暴露されていたが、アメリカには弱者を受け入れる懐の深いところもあるんだね。