またたびCINEMA〜みたび〜

大好きな猫や映画の小ネタなんぞをとりとめもなくつづってゆきます

謎の訪問者と父の過去 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』


このところ、アメリカの田舎を舞台にした映画を立てつづけに見ています。もう『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を見ましたし、次回はラース・フォン・トーリアのアメリカ三部作の最後『マンダレイ』かな?

ヒストリー・オブ・バイオレンス [DVD]

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今回はデイビッド・クローネンバーグ監督の新作です。いつも観客を訳の分からない異常な世界に連れてってくれるので、固定ファンの多い監督です。私はレイフ・ファインズが精神錯乱を見事に演じた、前作の『スパイダー』がお気に入りです。

唐突ですが、ここで英語のお勉強。タイトルの“ A History of Violence”(邦題はヒストリー・オブ・バイオレンス)は、「暴力の歴史という意味ではありません。歴史のhistory は冠詞の付かない数えられない名詞です。冠詞や所有格代名詞が付くと、人の経歴、前歴などの意味になります。ですから、historyに不定冠詞 a が付いているのでタイトルは、「暴力事件を起こした過去」という意味になります。
例:He has a history of criminal activity.(彼には前科がある)

でも映画を観てみると、「暴力の歴史」というのもまったくのはずれという訳ではないな、と思えてきます。クローネンバーグ監督自身も、「ひとつの物語を通して,個人にとっての暴力、社会にとっての暴力、国にとっての暴力、それに人類にとっての暴力も議論されている。だから政治的に論じる事もできるし、もっと人間の内部に入って哲学的に論じる事もできる。」)と語っています。(パンフより)

謎の男の出現によって、実に平和な家庭に恐怖が忍び寄ってきます。きっかけは外部からもたらされますが、まさにその家庭の内部に暴力の芽が潜んでいたのです。
さて、クローネンバーグは導入部から観客の度肝を抜いてくれます。

映画の冒頭、モーテルの前に停まった白い車に乗込むふたり組の男。白く抜け気味の映像とかったるそうな俳優の演技から暑い感じが伝わってきます。年上の男がチェックアウトして来ると言って事務所に入って行きます。車が事務所の前まで数メートル移動し男が車に戻ってくるまで、たぶんワンシーンだったように思います。車もカメラもほとんど動きません。ここの構図、私はジャームシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を思い出しました。車も白だったし。
若い男が水を補給しに事務所に入って行きます。場面は事務所の中に切り替ります。静まりかえった小さな部屋で絵はがきを物色する男。ここで鈍感な私はやっと胸騒ぎを覚えます。フロントデスクの下には血を流したふたつの死体。そこへ急にドアが開いて小さな女の子が現れます。ここで観客は固唾をのみますが、ここで場面転換し、拳銃の音と悪夢から目覚めた別の少女の叫び声が重なります。主人公トムの娘です。殺す場面は見せず、尚且つ話を本筋に持って行く、見事な展開です。

ここから、トム・ストール(ヴィゴ・モーテンセン)という男の家族の話に入っていきます。冒頭の後味の悪さを抱えながら、映画は平和で円満この上ない家族の様子を綴って行きます。
インディアナ州の小さな町(本当はカナダ)でダイナーを営むトムの店に、あのふたり組が現れます。ふたりは流しの強盗だったのです。もう閉店だと断ったものの居座る男たち。トムはウェイトレスを先に帰らせようとしますが、若い方に捕まって殺られそうになった時、トムはアクロバットのような素早さでふたりを片付けてしまいます。
悪党を退治したのですから、トムは一躍ヒーローです。ここで終わっていれば安手の活劇、昔の西部劇ですが、ここから話は急変し泥沼になっていきます。
父の手は汚れていたのです。

後日、謎の怪しい三人組がダイナーを訪れます。トムをジョーと呼ぶ男は、明らかに堅気には見えず、一緒にフィラデルフィア(男はフィリーと呼んでいる)に帰って兄リッチーに会おうと誘います。トムは自分はジョーイではないしフィラデルフィアにも行った事がないと否定します。男の白く濁った片目はジョーイが有刺鉄線で抉ったのだと、男はトムの妻(マリア・ベロ)に語ります。君の夫は何だってあんなにうまく人を殺せると思う?エド・ハリスが昔のギャング仲間カールを怪演してます。

一家にしつこく付きまとうギャング達の存在は、一家の平和に微妙な影を落として行きます。不安にかられたトムは、店から家にいる妻にライフルで武装しろと電話します。まるで西部劇の展開です。映画の中の開拓者の妻は、夫の留守中には勇敢に侵入者に立ち向ったものです。
ティーンネージャーの息子は、いじめっ子の挑発に乗って、級友に怪我をさせてしまいます。「暴力で事を解決するな」と叱るトムは、「あいつらを銃で撃ったじゃないか」と反発する息子ジャックに、思わず手を挙げてしまいます。家庭内にも暴力の影響が現れてきます。

家を飛出したジャックを人質にした三人組は、トムをむりやり車に連込もうとします。ここでもトムが信じられない早業で二人を殺すものの、カールに胸を撃たれ万事窮すというところで息子のライフルが火を噴きます。

息子に救われたものの、病院から帰ったトムに家族の視線は以前とはうってかわって冷たいものでした。私はここで家族はトムのから離れて行くと思ったのですが..。

20年も愛してきたはずの夫は、自分の知らない他人だった。私達のストールという名前はまやかしだった。不信感を募らせる妻エディーに、トムは階段でレイプまがいのSEXを仕掛けます。エディーは最初拒絶し、受け入れ、最後は逆にトムを邪見に捨てて行きます。彼女の複雑な心理を描いた見事なシーンです。
実は前半のシーンにもSEXシーンがあり、ここで観客は以前の平和な時のふたりのSEXとを比較するはずです。本当に無駄のない脚本だと思います。

ソファでひとり寝ているトムに、兄のリッチーから電話がかかってきます。ここでトムは決断します。ジョーに戻って我家から暴力を排除しようと。暴力は暴力で解決するしかないと。

兄リッチーはフィラデルフィアでマフィアのボスになっていて、すごい豪邸に住んでいます。この役をウィリアム・ハートが演じているのですが、彼の変わり様にビックリ。はまっています。短い出演時間であっという間に居なくなるのですが、強烈な印象を残して、アカデミー助演賞を獲得。私はエド・ハリスでも良かったと思いましたが、らしくないところが評価されたのでしょうか?ハート自身も、ギャング役は初めてだと言ってました。

ラストシーン:昔のしがらみを自ら断ち切って我家に戻って来たトムを、食卓に迎える家族の何とも言えない複雑な表情に、私達は何を読み取ればいいのでしょうか?

監督も語っていたように、この映画は荒唐無稽な単純なストーリーにも関わらず、実にいろんな読み方が可能です。私は特にアメリカの状況を重ねてしまいました。『ボーリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアが提起した問題と同じだと思いました。新世界に足を踏み入れたときから、アメリカ人はインディアンを殺し、黒人をアフリカから連れて来て奴隷にしました。アメリカには血塗られた過去があるのです。そのため人々は恐怖から自衛と称して武装します。西部劇の時代となんら変わっていません。
私達日本人には家の中に銃があるなんて(マタギの家ならともかく)考えられません。
平和な家庭の中に、土足で上がり込む暴力。はたして共存は可能なのでしょうか?